韻について

 

 

 

韻がなぜ面白いか、、

 

 

この疑問は音楽がなぜ楽しいかとほぼ同義であるため、生まれたての僕に明解な回答ができるかは甚だ疑問ではあるが。このテーマでブログを書き始めようと思う程度の小さなとっかかりがあるので、一度挑戦してみる。

 

 

第0章

 

 

わざわざ章立てするようなものでもない気がするが、論を始めるにあたり、とりあえず考えを書き出していきたいと思う。もし読者に相当レベルの忍耐力と読解力がなければこの0章の理解はおろか読み進めることも難しいと思う。そういう人間と僕以外のほぼすべての人間にとっては読むに値しない文章が延々続く可能性が大きいという事を最初に断っておく。

まずここでの韻とは韻を踏むということである。韻を踏むとは似た言葉を二つ以上近くに配置することである。曖昧な定義になるので軽く解説すると似てるとは主に音声学上の話である母音や子音はたまたそれ以外の発音記号が似ているということである、一部見た目が似ているという事も韻にするという考えもある。また近くとはどれほど近くのことを指すかというととりあえず同じ文節内にあればよいこととする。ではなぜ似た言葉が近くにあるとそれを面白いと感じることができるか?それはリズムを感じるからである。リズムとは、ある一定のパターンが繰り返されるときそこにリズムを感じるそう。なぜ一定のパターンが繰り返されると楽しいかという事だが、こっからは仮説。人間は常に先を予想しその予想の答え合わせをすると心地よく感じるのではないか?という仮説である。仮説ではあるがかなり当たっているという自負がある。というかしっかり探せばそういう研究はありそう。

 

 

仮説① 人間は常に先を予想し、その予想の答え合わせをすると心地よく感じる。

 

重要なのはその予想があっているか間違っているかは関係がないということである。厳密にあ当たったときと間違ったときで起きる反応に違いはあるものの心地よさ、という大きなくくりでは同じではないかと考える。なぜそうなるかの仮説を立てる。人間は予想をするがその予想を意識しているかしていないかにかかわらずそこに脳のメモリを割かれる。答え合わせをしたときにその予想に使っていたメモリが解放され快感を感じる。ということである。

 

 

仮説② 人間は意識無意識にかかわらず予想すると脳のメモリを使い。答え合わせをすると解放される。

 

このメモリの使用と解放の流れが人間に一種の心地よさを与えているのではないかと私は考える。体に思いっきり力を入れてそのあと一気に力を抜くと心地よさがある。学校の定期テストが終わった瞬間人は心地よさを感じる。この緊張状態からの解放に心地よさを感じるのは誰しも身に覚えがあることではないだろうか?この緊張と解放に関する理論が実際につかわれている分野がある。そうお笑いである。少しお笑いに詳しい人は誰しも緊張と緩和というお笑いのロジックを知っている。落語家の桂枝雀氏が提唱した論であり一定の支持を得ている。お笑いのボケとは平易な言葉を使って説明すると、普通とはちょっと違うことを言う

と言い換える言葉出来る。普通とちょっと違うことを言うためにはまず普通が何かを知る必要があり、さらに普通はこれだよなあとお客さんが思っている必要がある。世の中には普通と呼ばれるものがたくさんあるなかである特定の普通をお客さん想起(想像)してもらうには俗にフリというものをしなければならない。このフリによって。。。。。少し韻の話題からはずれすぎてしまったのでお笑い論に関してはまた別の機会に語るとする。さて仮説②において予想が意識無意識にかかわらずと書いたが、無意識の予想とは何だろうか?意識下の予想はわかりやすく、脳内で言語化しているものである。例えばきょうの夕飯はなにかな?であるとか、ギャンブルにおける予想であるとか。あいつとあの子付き合ってそう。。とかである。対して無意識の予想は、、予想という言葉を使っているせいでさらにわかりづらいが脳内で遊園地を想像したときにぱっと出てきたものがそれである。例えばジェットコースターやメリーゴーラウンド、人込みや晴れ渡る空などが一瞬で思いうかばなかっただろうか?それに対してそのジェットコースターは何色?とか空に浮かぶ雲の数は?など聞かれなきゃ浮かばないものは意識下の予想の一つとなる。

 「遊園地」などあるワードを見聞きしたとき何の苦労もなく頭に浮かんでくるイメージこそが無意識の予想である。

 

 

仮説③この無意識の予想の連続が周期性のあるものに対する心地よさの正体なのでないか

 

 

りんご

 

 

 

ぶどう

 

 

 

りんご

 

 

 

ぶどう

 

 

 

りんご

 

 

 

ぶどう

 

 

 

りんご

 

 

 

なす

 

 

 

 

韻の良さとは全く関係のない話になっているかもしれないが気にせず行く。心地良さと面白さというのは違う概念。予想においてある一定以上のストレスがないとそれが解放されたときの面白さはない。どういうことかというと、予想とはいえ、その答えがあまりに想像しがたいもしくは想像しやすい場合は解放の喜びも少ないという意味。答え合わせにおいて一定以上予想と離れていると心地よさも面白さもない。あらたらなストレスになるから。

つまり連続でもやりすぎNGかもね。

 

 

 

とりあえず仮説が3つできた。 ①と②は合わせて一つのような気もするが脳のメモリうんぬん含め検証ほぼ不可能だし適当すぎた感。

仮説① 人間は常に先を予想し、その予想の答え合わせをすると心地よく感じる。

 

仮説② 人間は意識無意識にかかわらず予想すると脳のメモリを使い。答え合わせをすると解放される。

仮説③無意識の予想の連続が周期性のあるものに対する心地よさの正体なのでないか

 

 

 

 

メモ

 

 かさはた なまやらわ 空気の量

さは かは 止まるかどうか

なま やらわ 鼻にかかるか

ぱま 唇

たなら 舌先

かが 付け根

は のど