口の中で完成する芸術「寿司」
なぜ寿司は二貫で1セットなのか。
という考察。(ここでは一個を一貫とする)
寿司は一貫を一口で食べる事を想定している。
つまり普通は二貫を二口で食べることになる
一貫めの寿司は情報なしの初めて出会う味の寿司。
二貫めの寿司は、一度食べて味を知っている寿司ということになる。
例えばめんつゆをめんつゆだと思っていれば飲むことはできるが、
お茶と間違えて飲むと反射的に吐き出してしまう。ということがある。
人間はものを口に含むとき、「どういう味だと思っているか」ということは、
意外なほど実際に感じる味に影響を与えている。ということである。
寿司一貫目と二貫目で実際に味が変わるわけではない。が、我々食す側は変わる。
大げさにいわせてもらうと一つめの寿司を食べた時私たちの体は作り変えられてしまう。
知らなかった体から知っている体に、だ。それはちいさな変化かもしれないが、その小さな変化が意識や味覚までも変えてしまう。と僕は信じている。
一貫目の寿司には驚きと感動を
二貫目の寿司には安心や安らぎを感じないだろうか?
感じない?
あ、そう
例えば
二人きりで「初めて」のデートをすることになった時、そこには「初めて」というバイアスがかかる。どういう人なんだろうという緊張感もあるだろう。そのドキドキを好意だと勘違いしてしまうかもしれない。
重要なのは二回目のデートではないだろうか、初めてというバイアス抜きで、デートそのものを楽しめるかどうかというのは二回目以降でわかるのではないか?
もちろんこれは大げさな例であり、寿司におけるそれとは、事象の大きさが違う。
極論いうと、別に一つずつ食べようが寿司は寿司だし、うまいもんはうまい。実際一つずつ出す寿司屋なんていくらでもある。
ただ、あの芸術と、真に向き合おうとしたときにやはり二つで一つがベストなのではないかと僕は思う。
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